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江戸文明のしくみ -循環編-

法政大学名誉教授
法政大学江戸東京研究センター特任教授
田中 優子

う~ん、これを知的興奮と言うのだろうなぁ。

「ず~っと触れていたい上質な絹のベルベット」そんなイメージの講義でした。

江戸時代の「物を大切にする」「最後まで使い切る」と言った生活習慣が、なぜ文明と呼ばれるようになるまで昇華していったのか?その背景や理由がしっかりと腹に落ちた。

目次

本を書くようになったきっかけ

1時限目の迫田さんの講義の続きの話になりそう。(笑)

 さて、黒笹さんとのお付き合いは小学館が漫画家白土三平さんの「カムイ伝全集」を出版することになり、そのプロモーション用の原稿を書く仕事を依頼されたのが最初でした。私は文学専攻で文字情報ばかりを相手にしてきたので漫画はどちらかというと苦手だった。でも、そうも言っていられないからと黒笹さんが送ってくれた文庫版のカムイ伝を読んでみると、江戸時代の農村の暮らしや職人の作業風景などがとても詳しく絵で描かれている。学生たちにとっては、言葉で伝えるより絵で伝えるほうがわかりやすいかもしれないと気づき、授業の素材に使ってみた。

 そんなことをやっているとあるとき黒笹さんが「本にしてみたら?」と言ってくれた。それが「カムイ伝講義」という本になった。これは私にとって大きな経験になった。

「道しるべや先達があってこそ本は書くことができる」ことや「今はどこかに潜んでいるかもしれない見えないものが過去だ」ということに気づいた。また未来に伝えても良いものと良くないものを区分して見始めるようになってきた。そんな意味で黒笹さんにはとっても感謝している。

文明の名に値した江戸文明

江戸時代の行燈(油脂を燃料とした灯り)の下で現代の印刷物は読めないが、墨で書かれたものは読めた。ろうそくもあったが、値段が高いこともあってあまり使われなかった。暗くて不便だから明るくしようという考え方ではなかったのだ。

 当時、地方自治の組織制度としては、庄屋(名主)、組頭、百姓代で構成される「村方三役」と、村人による「寄合」で意思決定をしていた。また生活上では組(年齢層別)、講(金融や労働力の相互扶助)、結(交換的な共同労働)が機能していた。

思想史家である渡辺京二は、「逝きし世の面影」(1998年)のなかで幕末~明治初期に日本を訪れたヨーロッパ人が見た日本の姿を浮かび上がらせ「日本には貧乏人はいるけれど貧困は存在しない」状況の、江戸時代から続いてきた生活様式を「文明の名に値した」と評し、「一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。」と書いている。

法政大学江戸東京研究センターでは、工学系と文学系の両方を包括的に研究している。江戸を研究することで、日本がバブル崩壊の後も中身のない経済力を広げてしまってきたことに気づくはずだ。

江戸時代の「循環」の思想

稲藁

「江戸に学ぶエコ生活術」の著者アズビーブラウンは、農作業のためのほとんどの用具の材料になる稲藁に注目した。もっとも使われたのは草鞋である。一日使うとボロボロになるので旅先の宿場では草鞋の捨て場が決まっている。一定量がたまるとそこに馬糞を入れ醗酵させ肥料にした。江戸時代はこういった循環系が徹底的になされていた。

諸国山川の掟

江戸時代初期には人口の増加や参勤交代による江戸の大名屋敷建設などによって森林が過剰に伐採された。その結果、洪水や飢饉が発生するようになった。江戸幕府は「諸国山川の掟」を示し、草木の根を掘り取ることや川筋の河原に田畑を作ることを禁じ、川上の左右に木を植えることなど下流域の治水を目的とした川上の開発を制限することとした。

陽明学者・熊沢蕃山は計画的な伐採や、無駄をなくして「健全な循環を作り誰もが貧困にならないよう世の中を経営する考え方」を主張した。

ちなみに、そもそもの経済の意味とは、このように世の万民を救済することを目的としたものと考えられていた。

ものの循環

江戸の思想は右肩上がりの発展ではなく循環の思想だ。

商人は倹約を美徳とし、事業の目的は金もうけではなく組織を存続させることだった。

マタギは獲物の肉の一部を山に返し、来年も山の幸が戻ってきてくれるように祈った。

着物は現代と違い呉服屋には置いていない。呉服屋には布地があるだけで、着物を売っているのは通常は古着屋。呉服屋で買った布地を仕立て屋で新品の着物にする。何年か使ったら洗い張り(一度ほどいて反物に戻す)し、仕立て直して染め直し、古着で使う。そのあとはふとん皮、ふろしき、袋物、クッションとして利用し、最後は灰にして畑にまく。

都市部の長屋の3点セットはゴミ箱、後架(共同便所)、水道だ。下肥、油粕などあらゆるものを肥料にした。都市で発生するゴミも収集され、地方で処理されるようになり、これらは都市と地方との間で循環した。

グローバリゼーションの中の江戸時代

江戸時代の前まで日本は銀で貿易を行っていた。しかし、スペインがアメリカ大陸で銀を大量に生産し、アジアに運び込んだために、日本の国力は弱体化してきた。豊臣秀吉が朝鮮に出兵したのもこのためだ。

そして日本は銀依存、輸入依存をやめ、国内にあるものでやっていかなくてはならなくなり価値転換をせざるを得なかった。これも江戸時代が循環系の思想を持つに至った理由のひとつである。

(編集後記)

田中優子先生のことは、TBSテレビのサンデーモーニングで時折拝見していた。「おぉ、鋭い意見だ」と感じる論理展開の切れ味はそのままなのだが、実際にお会いし話をさせていただくと、テレビで見るよりずっと優しい印象の方だった。

素晴らしい音楽や芸術作品に出合った時、人は感動して泣く。それはモノの真実・本質に触れることができたことへの感動であろう。

今日の講演ではそれに近い感動を覚えたし、「実は日本は、いまだに目先の便利や解決策を追いかけてしまっているのではないか」と考えさせられた。

この記事を書いた「こうち仁淀ブルー熱中塾」メンバー

豊後 彰彦
豊後 彰彦

東山建設㈱勤めの土木技術者で、得意技は会議の設計施と進行工管理です。

マイボートで釣りをしながら、気の合う仲間とといじりいじられる時間が好きだなぁ。

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